雨宮まみさんについて

別に著書を全て買ったりしてたわけでもサイン会やイベントに欠かさず行ったりしてたわけでもない。大ファンとはとても言えないし、ただ連載コラムやブログが好きでたまに本を読んだりしていただけだ。

それでも訃報が飛び込んできた時しばらく思考が停止した。訃報を伝えるwebニュースを見たのは会社のお昼休みだった。午後も仕事があるので、一旦この件は置いておくことにして夜いつも通り教習所へ行った後にもう一度詳しくニュースを読んだ。

そこには自宅で心肺停止の状態で見つかったとしか書かれていなくて、亡くなったということ以外ほとんど何もわからなかった。死因なんて知ったってしょうがなくてそんなのはどうでも良いんだけど、雨宮まみさんの生み出す文章がもう読めないんだって実感が数日経ってじわじわ湧いてきている。

 

わたしは何かを熱心に追いかけるおたくであることを拗らせてはいたけど、"女子をこじらせて"に書かれているように女性であることをこじらせていたわけじゃない。あまり人と関わることもなく鈍感に生きているし、女に生まれたことを窮屈に感じたこともない。わたしみたいなすぐに失われる若さだけが取り柄の無能は女に生まれて良かったとすら思っている。総合職なんかには就かず片手間に事務をやりながら家庭に入っちゃえばいいんだから。こんな甘ったれたことを言ったら何もわかってないって思われるかもしれないけど、本当にそう思っている。

だけど雨宮まみさんの凛とした姿はわたしの理想の女性像だった。好きなものをあんな風に魅力的に書くことの出来るところに憧れていたし、沢山の悩みを受け止めてくれる、正しさだけが全てじゃないと思うんですという懐の深さがとても素敵だと思っていた。

直接話したことはもちろんない。でもこの先どうしたらいいのかとかふとした時の孤独感とか今のままでいいのかなとか、そういう言葉にし難い友人や家族に説明しづらい心のささくれみたいなものが雨宮さんの文章を読むと不思議と消えていた。目の前が晴れて、明日も頑張ろうと不思議と思える文章だった。

人生においてものすごく困ったこととか本気で死にたかったこと、消えてしまいたいと思ったこと、一度もない。そんな呑気に生きているわたしでも心を軽くしてもらったことが何度もあった。意識はしていなかったけど心のどこかで雨宮さんを頼っていたような気がする。

 

物心がついてから、お葬式というものに行ったことがない。喜ばしいことだけどそれと同時に、大切に思う人が亡くなったときの気持ちの落とし所をわからないでいる。雨宮さんの訃報を知った日、午後の仕事や教習所で嬉しいこと楽しいこと、大したことじゃなくてもそれなりに何度かあって、悲しいことがあっても嬉しいものは嬉しいし、楽しいことは楽しいんだなと思った。

でも夜布団に寝転がりながら沢山の人のツイートやブログを読んでいたらなんだかつられてだんだん悲しくなってきてしまって大した読者でもなかったはずなのにわんわん泣いてしまった。

今週末は仙台に旅行へ行った。すごく楽しくて紅葉も綺麗でご飯も美味しくて、とても良い日を過ごせたなと思っているけど、このブログを書いている今、また悲しくなってきている。

好きな人がいなくなるってどういうことなのか。もっと身近な近親者が亡くなったら数日間泣き通しの日々が続くのか、そんなことばかり考えている。ものすごく楽しいことがあった後、ふと雨宮まみさんを思い出して悲しくなる。でもその後嬉しいことがあったらわたしは笑顔になって、そんなことがいつまで続くんだろう。一週間もすれば頭に思い浮かべもしなくなるんだろうか。 

雨宮まみさんの著書で読んでいないものを購入した。これが全て読み終わるまでわたしのなかの雨宮まみは生きているし、読み終わったらまたいないことを実感してつらくなるんだと思う。 

あまりにも突然すぎて、今はそれくらいしか考えられそうもない。

 

おしまい。